2000年10月~2002年5月
この連載は、2000年10月号~2002年5月号まで新潮社の雑誌「ENGINE」に連載したものを再録したものです。
第3回 レクター博士の石鹸 2000年12月
シェイクではなくステアで
今の子どもたちには思いもよらないことだろうけど、僕の子どもの頃、なりたい職業の人気上位に「スパイ」というのがあった。
もちろん映画「007シリーズ」の影響である。小学校の高学年の頃に見た第1作の「007は殺しの番号」(現在は「ドクター・ノオ」に改名されている)は、世界中の少年たちにカルチャー・ショックを与え、ショーン・コネリー演ずるジェームズ・ボンドは少年たちの英雄になった。
ファッションやクルマ、ワルサーPPKなどの拳銃、それまで見たこともないエキゾチックな国々、次々と登場するボンド・ガールたち!みんな、ジェームズ・ボンドの夢物語に夢中になった。
とりわけ英国政府発行の「殺人許可証」、殺しのライセンスを持っていた、というのがスゴイ!!ライセンスのおかげもあってか、映画のボンドは次々と敵を殺してゆく。1作につき何十人も殺していたのではないか。
映画に飽き足らなくなると、イアン・フレミングの原作を読んだ。そこで、カクテルへのこだわり、ベントレーなど、クルマの趣味に関するウンチクなど、ボンドについて深く勉強し、いつしか自分も外国のバーで、ウォッカ・マティーニを、シェイクではなくステアで注文するゾ、と夢想した。
自分が大人になった頃、ジェームズ・ボンドはショーン・コネリーではなくなり、映画の007は荒唐無稽さが鼻につくようになった。僕のヒーローは、いつのまにかフィリップ・マーロウに変わっていて、バーではギムレットを注文した。大人になるって、そういうことなのかも知れない。
今のリーダーは?
実際、ボンドのマティーニを飲んだのは、最近のことだ。ニューヨークの「フォーシーズンズ・ホテル」に、マティーニをウリにしたお洒落なバーがあって、数十種類のマティーニがメニューに並んでいる。今年の2月に初めてここを訪れた僕は、「ジェームズ・ボンド」という名前のマティーニを見つけて注文したのだ。それは、つまるところウォッカをベースにしたマティーニで、シェイクしたシェーカーと冷えたグラス、それに、こじゃれたおつまみを小さなトレイにのせて、テーブルまで運んでくれた。冷えて曇ったグラスに、自分でシェーカーからマティーニを注いで飲む。シェーカーにはちょうど2杯分入っていて、早く飲んでしまわないと、氷が溶けて、水っぽくなってしまうのが難だ。お洒落な気分は味わえたけれど、次は違うマティーニを頼んだ。
1960年代、ジェームズ・ボンドは男の趣味のよさの象徴だった。2000年の今、東側はなくなり、女性は男性よりも強くなった。社会も文化も成熟の度合いを増し、ジェームズ・ボンドのこだわりなんて、時代錯誤でカワユく見える。
今、男のこだわりと趣味のリーダーは、ハンニバル・レクター博士だろう。トマス・ハリスの『ハンニバル』(新潮文庫)は、日本でも上下巻合わせて150万部を売る大ベスト・セラーになっている。『羊たちの沈黙』では、地下の牢獄に閉じ込められていただけだが、『ハンニバル』では、フィレンツェで生活するレクター博士のライフ・スタイルがあますところなく描かれていて、彼の趣味嗜好がこの小説の大きな魅力になっている。
ジェームズ・ボンドは何人殺しても罪にならなかったが、レクター博士はそうはいかない。逃亡生活を送るほかないのだ。国家の利益のための殺人はOKだが、自分の趣味のために人を殺してはいけないのですね。それも、食べちゃうために殺しちゃあいけないのです。殺人鬼の主人公の趣味のよさがこれだけ世界中で認められ、ヒーローになってしまうのは、社会が病んでしまっていることの証明か。
サンタマリア・ノヴェッラ
『ハンニバル』の中で、レクター博士ご用達の石鹸屋として登場するフィレンツェの≪サンタマリア・ノヴェッラ≫に、この夏、イタリアを旅したときに寄って、買い物をした。正式には、≪オフィチーナ・プロフーモ・ファルマチェウティカ・ディ・サンタマリア・ノヴェッラ≫という薬局で、日本の雑誌でも何度か紹介されている。けれど、フィレンツェのほかにはイタリア国内に支店がふたつあるだけなので、それほどポピュラーではなかった。
名前から想像がつくように、サンタマリア・ノヴェッラ教会の中庭をはさんで裏手にあるこの店は、14世紀、巡礼に疲れた旅人のために協会がローズウォーターなどを販売することからスタートした。当時、ローズウォーターは防腐剤、消毒薬、あるいはワインで割って飲み薬として使用された。
店内は、薬局とはいっても通常頭に浮かぶドラッグ・ストアとはあまりに違う。一歩足を踏み入れると、荘厳な雰囲気に圧倒され、まさしく宗教的な場所に身を置いている気分を味わうことになる。取り扱い商品は、ざくろやミント、レクター博士がクラリスに贈ったアーモンドほか、香料が入った石鹸や香水、シャンプー、薬用酒など、およそ200種類。そのどれもが、中世の宗教空間の雰囲気を壊すことのない、クラシカルなビンや箱入りで販売されている。
ハンニバル効果か、今回訪れたときは、英国圏の国からのツーリストで混み合っていた。広い店内にカウンターはひとつ、そこにふたりの店員さんがいて客をさばいている。なぜか、僕が訪れたときはふたりともイタリア人ではなく、ひとりはドイツ人、もうひとりは日本人(!)の女性だった。
僕は、自分用にざくろの石鹸、おみやげ用に数種類の石鹸と、お香の詰め合わせをいくつかつくってもらった。
シャトー・ペトリュスのワインや凝った料理をそうそう真似することはできないけれど、ここの石鹸を、毎日のお風呂に使うことでなら、ハンニバルの趣味をわりと手軽に味わえる。お風呂上りに自分の身体からほのかに香るざくろの香りは、それが似合うかどうか別にして、とても気持ちがいい。オーデコロンやパフュームより、やっぱり石鹸の香りが男にはお洒落でしょう。マッチョは時代の気分じゃない、と思う人にはオススメします。
ところで、映画化された『ハンニバル』で、レクター博士がどんなファッションで登場するのか。ボンドには、ショーン・コネリーの着るブリティッシュなスーツがじつに似合っていたが、アンソニー・ホプキンス演ずるレクター博士は、さて、オズワルド・ボーテンのネオ・ブリティッシュをどう着こなしているのか、今から楽しみです。
最後に、ジェームズ・ボンドが持っていた殺人許可証。あれって、国際法上、問題ないのか、知っている人がいたら教えてください。
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