Yoshida Kikaku Co.,Ltd.

コーイチのボーイズライフ

2000年10月~2002年5月
この連載は、2000年10月号~2002年5月号まで新潮社の雑誌「ENGINE」に連載したものを再録したものです。

第11回 オートバイ 2001年08月

「ラッタッタ」が原点

もう一度、オートバイに乗りたい。
そう思っているオヤジ世代が増えているという。このところ雑誌でもそうした特集をよく見かける。かく言う僕じしんもそのひとりなのだけれど、中年になって、10年以上乗っていなかったオートバイにまた乗り出そうというのは、なかなか大変なことだ。
僕の2輪初体験は、50ccのホンダのロードパル、通称「ラッタッタ」までさかのぼる。大学に入って普通免許は取ったものの、クルマを買ってそれを維持していくことなど夢のまた夢。それどころか電車に乗るお金さえ困るくらい貧乏だった。バイトで稼いだお金はほとんど洋服を買うのに使ってしまい、考えてみると、食べるモノに事欠いてもファッションにお金を使ってしまう。昔の若者って、そういうのが多かったから、自分の生活がバランスを欠いているとはちっとも思っていなかった。
当時見た映画「さらば青春の光」で、デビューしたばかりのポリスのリード・ボーカル、スティングがべスパに乗るグループ、モッズのリーダーとして登場したことにも影響された。べスパは買えなかったけど、友人から中古の「ラッタッタ」を格安で譲ってもらい、それを改造した。ヘッドライトを大きなものに変え、後ろにあったガソリン・タンクをオートバイのように前のフレームに移動して取り付けただけなのだけれど、エンジンのついた自転車のようなダサいデザインが、ずいぶんとファッショナブルになったように思えた。
得意になって原宿周辺を、高級古着屋「ペーパームーン」で買ったアンティークのデッドストック・パーカーに、メンズビギや、グラスメンズの服を合わせ、カーキ色のレインハット(ヘルメットは義務付けられていなかった)といったファッションで走りまわっていた。
ある日、最高速度までエンジンをブン回して甲州街道を走っている時、フレームの付け根からバイクがまっ二つに折れてしまい、死にそうな目にあった。「ラッタッタ」でむちゃな改造をしたのがいけなかったのだと思う。

ドゥカーティ・モンスター

その後、ちゃんとしたバイクに乗ろうと、ホンダから出たばかりの50ccのモトクロス・タイプを買った。相変わらず法的にはヘルメットは不要だったけれど、その性能はもはやエンジンの付いた自転車というレベルをはるかに超えたものになっていた。
これで本格的にオートバイに目覚め、教習所に通って中型自動2輪の免許をとった。教習にかかった時間はほとんど規定通りだったと思う。最初のヤマハのマルチ・シリンダー、XJ400に何年か乗り、その後、限定解除に挑戦しようかとも思ったけれど、当時は、実地試験のあまりの大変さに、その気力もおこらず、やがて興味は4輪に移っていった。
以来、何年かに一度、もう一度オートバイに乗ろう、と思うのだけれど、実現せずに、ずるずると10年以上が過ぎてしまった。
きっかけは、ニューヨークで見た1台のオートバイだった。その時泊まっていたマディソン・アベニューの37丁目にあるモーガンズ・ホテルに、夜中、食事から戻ってくると、1台のオートバイが玄関の前に止まっていた。ドゥカーティM900モンスター。ドゥカーティのなかで一番シンプルなネイキッド・タイプで、色はイエロー。オートバイ自体、マンハッタンではあまり見ないだけに、ピカピカのドゥカーティは場違いみたいにものすごく新鮮だった。
ドゥカーティが欲しい。モンスターが欲しい。今度こそ、もう一度オートバイに乗ろう。
と決心し、東京に戻って、すぐに家の近くのドゥカーティを扱っているバイク・ショップにM900モンスターを見に行った。140万円というプライスにはちょっとビビったけれど、こんなに美しいデザインのイタリアのオートバイが、8気筒フェラーリの10分の1以下のプライスで手に入れることができる。これは、ものすごく得なことだ。と、いつもの思考回路が働き、購入を決意。でも、フェラーリは、普通免許を持っていれば、お金さえあれば買ってすぐに運転することができるけれど、900ccのオートバイは限定解除の大型自動2輪の免許がなければ運転することができない。
バイク・ショップで近所の教習所のパンフレットをもらい、その足で教習所に行って入学金と学費を支払った。12万円也。

スラロームで転倒

中年になっての大型自動2輪の教習は、簡単ではなかった。自分の思ったようにバイクを動かすことができない。こんなはずではなかったと焦っているうち、わずか4回目の教習のとき、スラロームで転倒してしまった。腿と腰をしたたか打ち、その日は痛みをこらえ、なんとか家に帰ったのだが、次の日会社に行って午後になるとみるみる腰が内出血のために腫れ上がり、痛みに耐え切れず病院に行くとそのまま入院させられてしまった。骨には異常がないものの強度の打撲による内出血のために神経が圧迫され立っていることができない。入院は1日だけだったけれど、このことでオートバイの免許を取ることに周囲の猛反対が起こり、不本意ながら、大型自動2輪の免許は諦めざるを得なくなった。運動神経も肉体も若い時とは違う。そのことを思い知らされる結果となった。
ドゥカーティは諦めたけれど、もう一度バイクに乗りたいという思いをここで途切らせたくない。初心にもどり、50ccのスクーターからやり直すことにした。
結局手に入れたのは、イタリア製のスクーター、イタルジェット社のドラッグスターだ。イタルジェット社は、ボローニャに本拠を置く小排気量MCメーカーで、ドラッグスターは、細めのパイプを△状に組み合わせたトラス構造のパイプ・フレーム、剥き出しになったフロントのウィッシュボーン・サスペンション、ダイレクトにモノショックにつながる方式のリア・サスペンションなど、超過激な近未来デザインが特徴だ。
デザインの美しさと過激さでは、ドゥカーティに、ある意味負けていない。色はフェラーリのようなレッドを選んだ。日本製のスクーターと比べるとサイズが大きく腰高で、とても原チャリには見えない。スピード・メーターはなんと120km/hまで刻まれている。目盛りを使いきることはないが、リミッターがついていないので、70km/hプラスで巡航が可能だ。2サイクルの水冷単気筒エンジンは最高出力6.2馬力/7200回転。値段も過激で、50ccの原チャリのくせに38万5000円もする。
思えば中古の改造「ラッタッタ」から20数年、僕のオートバイ・ライフは50ccのイタルジェットから再スタートすることになった。この後どうなるかわからないけれど、いつでもバイクをそばに置いておきたい。そして、いつかスーパー・バイクにまでいきつけたら。
と、原チャリに乗りながら思っている。

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2000年10月
第1回 テスタロッサが止まらない
2000年11月
第2回 ミラノはスマートがいっぱい
2000年12月
第3回 レクター博士の石鹸
2001年01月
第4回 F1日本グランプリ
2001年02月
第5回 最後の晩餐
2001年03月
第6回 ファッション・ケア レジュイール
2001年04月
第7回 東京オート・サロン
2001年05月
第8回 サイド・バイ・サイド
2001年06月
第9回 オホーツク劇場を目指して
2001年07月
第10回 コレクション・ツアー
2001年08月
第11回 オートバイ
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第12回 赤ちょうちん
2001年10月
第13回 悩み続けて18年
2001年11月
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2001年12月
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2002年01月
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第17回 カバン・コレクション
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第18回 ピニンファリーナ・コレクション大中小
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最終回 ウシ君と全部で6匹のネコ

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