2000年10月~2002年5月
この連載は、2000年10月号~2002年5月号まで新潮社の雑誌「ENGINE」に連載したものを再録したものです。
第18回 ピニンファリーナ・コレクション大中小 2002年03月
コレクターじゃないのに
やたらとモノを集めるタイプの人、いわゆる「コレクター」と呼ばれる人たちの心理が僕には理解できない。
子どもの頃は、僕だって人並みに切手やお菓子のおまけを集めたりした。けれど、一時の熱はすぐに醒めた。何かにこだわってモノをコレクションする人はモノに対する執着が強くて、根気もあるということだろう。残念ながら、僕はそのどちらも持ち合わせていないらしい。
ただし、モノを捨てたり処分したりするのが大の苦手で、自然といろんなモノが増えてしまう、ということはままある。
たとえばネクタイ。高校に入ったばかりのころ、VANヂャケットの店で買ったレジメンタル・ストライプのタイからはじまって、これまで購入したネクタイは1本も捨てずにクローゼットの中に入っている。たぶん4、500本はある。ズラリと並べれば、時代によって太さや柄が微妙に変わり、流行の変遷が見てとれて面白いはずだが、日常的に締めるタイは数本だけだから、持っていても意味がないのだけれど、処分できずに今日に至っている。
こうしてたまっていくモノがほかにもいろいろある。アイテムがネクタイのようなモノであればカワイイが、大きなモノだったりすると自分でも焦る。それが、対外的には「ピニンファリーナ・デザインのミドシップ・スポーツカーの大中小のコレクション」と称しているモノだ。
実用の役に立たないミドシップのスポーツカー3台。大はフェラーリ・テスタロッサ、中は同じくフェラーリのF355、小はホンダ・ビート、を持っている。
これだけ聞いたら、「こいつ何者?」と思うでしょう。僕だってそう思います。でも、本当は意識して揃えたわけじゃないんです。ただただ気が付いたらそうなっていた。テスタロッサ購入時の「聞くも涙の物語」は、この連載でも語ったことがある。あの話にはまだ続きがあったのです。
ビートはカワイイ
1991年春、夢のスーパーカー、テスタロッサを手に入れてからというもの、僕はそのあまりのスーパーぶりに持て余してしまった(精神的にも)。前に向かって走るのはなんとかなるが、ギアをリバースに入れると、美しいスーパーカーは視界の限られたタイガー戦車に変わる。所有してもうすぐ丸12年になるが、いまだに1度も縦列駐車をしたことがない。最低地上高の低さはホテルのようなちゃんとしたパーキングに入る時でも気をつかう。ガソリン・スタンドの入り口の段差は時として地雷と化す。
ガレージから出して走り出すには、そうとうの決意が必要だ。何度かサーキット走行も経験したが、快感よりもカーブでのトリッキーな動きに恐怖の方が先に立った。当時の全財産(以上のモノ)を注ぎこんでトンデモナイものを買ってしまった。その存在の重さに疲れていたのです。
そんな時に、ひょんなことから目がいったのが、テスタロッサと同じ、ミドシップのスポーツカー、ホンダ・ビートだった。クルマ好きの友人が持っていた、1年落ちで走行距離3000kmに満たない新車同様のコンディション。
もともとイタリアのデザインが好きで、ファッションから日用品までずっとイタリア・デザインにこだわっていた。クルマでは少年の頃からピニンファリーナのデザインに心酔していて、フェラーリは、ピニンファリーナ・デザインの頂点だと今でも思っている。
ビートはデビューした当初からピニンファリーナがデザインに関わっているという噂があった。ホンダはそれを否定しているが、僕もビートのデザインはピニンファリーナのDNAが組み込まれていると思えてしょうがない。デスタロッサのサイズ、全長4485×幅1975×全高1130mmに対して、ビートは3295×1395×1175mm。排気量4942ccに対して656cc、馬力も390に対し64。と、すべてにおいて極端に違う。
でも、なんだかデザインのDNAは共通しているように見える。ビートは美しい。そしてカワイイ。テスタロッサは持て余しているけれど、ビートならばその性能を目いっぱいに引きだせそうな気がする。そうして、テスタロッサの横にビートが並ぶことになった。実際に運転してみて、ビートは小さなフェラーリだと思った。ちょっといじってマフラーとステアリングを無限のものに交換し、ついでにレブリミッターも解除した。サーキットで試せば、5速9000回転でスピード・メーターのメモリを振り切り、170km/hくらいを指す。4輪ドリフトでコーナーを回ることもできる。サイズの小ささもあって、街中ではものすごく速い。どんなに狭いスペースでも駐車は思いのままだし、テスタロッサでの欲求不満が一気に解消できた。
生産が終了してからもうすでに何年にもなるのに、インターネットにはビートに関するサイトが山のようにある。販売台数が思うように伸びず、ホンダにとってはビジネス的に成功したとはいえないかもしれないけれど、これだけ多くの人に愛されるクルマはそうそう出てこないと思う。
テスタロッサは「バブルのあだ花」のひとつに数えられることが多いけれど、ビートもまたあのバブルの時代だったからこそ、この世に生まれたのだと思う。バブル期に計画されたクルマは今考えても面白いものが多い。しょうもないものも多いけれど。
日常性と過激さの中間
で、94年に発売された8気筒のミドシップ・フェラーリ、F355は、ビートの日常性とテスタロッサの過激さの中間にあるクルマということで欲しくなってしまった。値段は中間とはいえないが。
クルマというのは、新しいのを買う場合、それまで所有していたのを下取りに出したり、売ったりするのが普通だけれど、それが僕にはできなかったのです。
だった、91年に夢のスーパーカー、テスタロッサを買ったのは、当時、市場価格では5000万円ともいわれたテスタロッサを、正規ディーラーのコーンズがキャンセルが出たからと、定価2600万円で売ってくれたからなのだった。クルマとしてはとんでもない金額のオートローンを組んだけれど、売る時には1000万円は儲かってしまう、と思い込んでいた。それがバブルが弾けると、フェラーリといえどもただの中古車になってしまった。
あの神々しいテスタロッサを下取りに出しても、それに追い金を足さなければF355が手に入らないという事実を受け入れたくなかった。自動車評論家の徳大寺有恒さんの名言に「クルマは売っても買っても損をする」というのがあるが、まさにそれこそ真実。売りさえしなければ、自分にとってのクルマの価値は買った時のまま下がらない。
で、テスタロッサを売るのを止めてしまいました。そして、F355を買わなければ、それで済んだはずだった。でも買ってしまいました。またもや巨額のオートローンを背負い込んで。僕は時々常軌を逸する行動をとることがある。その頃の僕は、世の中はどうなっていても、僕の「人生のバブル」はまだ弾けていないと錯覚していたらしい。
F355はとてもいいクルマだった。スーパーカーのオーラは出ていないが、クラシックなフェラーリの美しさを残しているし、信じられないくらいに運転しやすい。まるで「力のあるビート」のようだ。これは誉めているつもりの表現。でも、いくらなんでも、大金持ちでもないのにミドシップのスポーツカーを3台も持つのは普通じゃない。自分でも分かっているから、整理したいのだが、ビート以外の2台のフェラーリは売ると値落ちがひどい。そのことがまだどうしても納得できない。
こんな不景気の時代だから、なるべく身軽になっておいた方が良いに決まっている。でも、できれば持っていたい。集めているわけではないのにモノが増え続けていくこの連鎖を断ち切れるのは、いつのことだろう。
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- 第1回 テスタロッサが止まらない
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- 第2回 ミラノはスマートがいっぱい
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- 第3回 レクター博士の石鹸
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- 第4回 F1日本グランプリ
- 2001年02月
- 第5回 最後の晩餐
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- 第6回 ファッション・ケア レジュイール
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- 第7回 東京オート・サロン
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- 第14回 キッチン・ヴァージン、料理に挑む
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- 第15回 最近、どんなスーツ着てますか?
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- 第16回 隠れジンギスカン・マニア
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- 第17回 カバン・コレクション
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- 第18回 ピニンファリーナ・コレクション大中小
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- 第19回 ナッパ・レザー
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- 最終回 ウシ君と全部で6匹のネコ