2000年10月~2002年5月
この連載は、2000年10月号~2002年5月号まで新潮社の雑誌「ENGINE」に連載したものを再録したものです。
第4回 F1日本グランプリ 2001年01月
プラチナ・チケット
F1日本グランプリの観戦に鈴鹿まで行ってきた。決勝が行われた10月8日の日曜日の朝、東京駅を新幹線で出発、その夜10時からのテレビの放送までに東京にもどって、自宅であらためてテレビ観戦をしようという、ちょっときついスケジュール。でも、ハッキネンとシューマッハーのワールド・チャンピオンを賭けた1戦だけに、ライブでレースを見られる幸運を喜ぶ気持ちの方が大きくて、こういう時の早起きは苦にならない。
特に今回は、スポンサー席というプラチナ・チケット。つまり、グランドスタンドの正面にある各チームのピットの上に設置された、スポンサーのための特別席からの観戦なのだから、期待も倍増である。実は、僕がPRの仕事をお手伝いしている、ドイツのファッション・ブランド「ヒューゴ・ボス」が長年にわたりマクラ―レンのスポンサーをしている関係で、この特別席にもぐりこませてもらうことができたしだい。各チームは、自分たちのスポンサーのために、グランプリ毎にこうしたスポンサー用のチケットをFIAから購入して、毎回何十名かずつ、招待するのだという。
子どもの頃、F1という世界のモーター・スポーツの頂点にあるレースがあるのを、たしか、少年向けの雑誌「ボーイズライフ」を通じて初めて知ったのだと思う。ちょうど、ホンダが初めてF1に参戦した時期でホンダを応援しながら、フェラーリやロータスといったチームが、国の威信をかけて、世界中を転戦し、最後にチャンピオンを決める、という壮大なイベントに夢中になった。
ジム・クラーク、ジャック・ブラバム、ジャッキー・スチュワート、グレアム・ヒルといったレーサーの物語を読んでは、いつかはヨーロッパへいって本物のF1レースを見てみたいと心底思った。
F1コメンテーターの今宮純氏の著書『モータースポーツ・ジャーナリスト青春編』(三樹書房)を読むと、僕と同じような少年が日本中に何人もいたのだということが分かってうれしかった。今宮氏は、僕より6歳年上なのだが、この本では、60年代から現在までのモーター・スポーツの歴史を、自分史と重ねあわせて書かれていて、僕には感情移入できるところがたくさんあって、とても面白かった。
今宮氏が、ずーっとF1を思いつづけて、ついには、解説者にまでなってしまうのとは違い、僕の方はホンダがF1から撤退するとともに、興味は他のことに移ってしまった。たいていの少年たちがそうだったように。
携帯電話を見た日
初めてこの目で、本物のF1グランプリを見たのは1987年の鈴鹿での1回目のレース。ホンダのエンジンがF1の頂点に君臨しようとしていた時で、中島悟が日本人最初のF1ドライバーとして、ロータス・ホンダからフル参戦を始めた最初の年でもあった。この頃、日本はバブルの真っ盛り、突然、日本にF1ブームが巻き起こったわけだが、あれはいったいなんだったのだろう。あの日の鈴鹿は異様な熱気に包まれていた。その時も、パドックの上のスポンサー席に、あるファッション・ブランドが招待してくれたのだが、そこから正面に見えるグランドスタンドの盛り上がりは、今回とは100倍も違ったような気がする。
そうそう、VIPの観戦のためか、プライベートのヘリが空を行き来して、今は懐かしいレイトンハウス・カラーに塗られたヘリもその中に1機あったっけ。初めて携帯電話というものを見たのもその時で、大きなショルダー・バッグくらいの大きさだった。当時、自動車電話はかなり普及していたが、個人が持ち歩く電話はめずらしかった。今のようにシャツのポケットに入るようなケイタイをだれもが持つようになるなんて、あのとき誰が想像できただろう。
一般のテクノロジーが十数年でここまで劇的に進むくらいなのだから、工業技術の粋を集めたF1の世界での技術の進化は、素人の想像を絶するものがあるのだろうと思う。どんなに、マシンのレギュレーションを変えてスピードを抑えようとしても、テクノロジーがそれを追い越してラップタイムは毎年速くなるばかりだ。そうなると、ドライバーも機械のような正確なテクニックを求められ、ついにシューマッハーのようなサイボーグが登場して、彼を得たフェラーリが今年、21年ぶりのドライバーズ・チャンピオン獲得という悲願を達成した。それはそれで、フェラーリ・ファンのひとりとしては嬉しいけれど、もし、あのセナが生きていて、セナがドライブするフェラーリとシューマッハーのドライブするマクラ―レン・メルセデスがチャンピオンを賭けて競いあって、フェラーリが勝利したなら、もっとドラマチックだっただろうな、と思ってしまう。それは、言ってもせんないとはわかってはいるのだけれど。
シューマッハーは、いずれは、メルセデスをドライブすることになるのだろう。そうなったらもうだれもかなわないし、レースも退屈なものになるのは間違いない。
広告宣伝のツール
87年の鈴鹿では、なぜかセナでもプロストでもマンセルでもなく、ベルガーがフェラーリで優勝している。彼は鈴鹿の後のオーストラリアでも優勝しているが、フェラーリが勝ったのは、この年わずか2勝だけだった。次の年、フェラーリはまた勝利から見放され、1勝しかしていないことを思うと、87年の鈴鹿でのフェラーリの優勝をこの目で見られたのは、ものすごい幸運だったのだと思う。
鈴鹿での初めてのF1は、バブルのエポック・メイキングな1日として、あの日その場にいた人はだれもが、今でも強烈な印象とともに覚えいるはずだ。
レースのあと、マイクロバスで名古屋まで行き、新幹線で東京にもどる予定だった。でも、バスに乗って2時間たっても駐車場から出られない大渋滞にあって、バスを捨てて一番最寄りの駅の白子駅までテクテクと1時間以上かかって歩いた。
今年は、シューマッハーがゴールした直後にレース場を後にしたせいもあるけど、87年ほどのひどい渋滞に見舞われず、拍子抜けするくらいあっさりと帰ってくることができた。それぞれ家路につく大勢の観客たちは、年齢も様々で、バブル紳士の姿はひとりもいない。レース・クイーンもキャンペーン・ガールもいなくて、そういう意味ではちょっと地味だったけれど、10年以上の歳月がたち、本当のファンだけが残ったのだ。
でも、今の少年たちは、僕の世代のような思いを今のF1にもつことが出来るのだろうか。あまりに高度に進んだマシンや、サイボーグのようなドライバーに夢を感じられないのは、自分が歳をとったせいなのだろうか。
スポンサー席からみたF1は、大企業の広告宣伝のツールとして、高度にオーガナイズされた全世界規模の広告媒体としての興行という側面を、これでもかというくらい見せつけてくれた。でも、こうやってF1の歴史は続いていくのだと思う。街からガソリン・エンジンのクルマがいなくなったあとも、サーキットではF1マシンがレースを続けていくのだろう。
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